草間彌生展「わが永遠の魂」観に行きました

2017年3月11日

 この草間彌生展を観に行く前、草間彌生著「無限の網」を

読みたくなり、深夜独り夜食を作りながらウキウキと布団を目指した。おそらく草間彌生の展覧会は、2015年夏、長野以来だろう。偶然にも宿泊したホテルに南瓜が展示されていたのを思い出す。

 久しぶりの友人と再会した。再会というのは不思議なもので、度々重なることが多い。何かを新しく始めようとする時などはめっぽう多い。互いの近況を報告しつつ、六本木に向かった。

 

 国立新美術館は、混んではいたものの、比較的スムーズに入ることが出来た。当日券のブースも列をなしていたが、大変というほどでもない混み具合。休日でこの程度であれば、平日はかなりゆったりとした気持ちで観ることが出来そうだ。

 松本市美術館で展示されていた作品は結構多かった。それゆえ目新しさは少ないかな。という率直な感想。けれどもその中でも知らない作品も幾つか観ることが出来た。

特に珍しいと思った作品は草間彌生のコラージュ作品だ。コラージュはシールや写真の切り抜き紙幣など、身近にあるもので構成されている。うる覚えの知識で申し訳ないのだが、アンディー・ウォーホールの作品以前から草間彌生はコラージュ作品を積極的に制作しているらしい。シンプルながらも絶妙に配置された、シールは、”あの”無秩序ともいえる水玉の片鱗を思い出させる。計算つくされた無秩序だからこそ、芸術としてなし得ることが出来るのかもしれない。

 彼女は、おそらく時を経ても、認知されていく芸術家だ。草間彌生は草間彌生でしかありえない。ピカソがピカソであるように。

 

 

 2004年森美術館での個展は、多くの日本人が草間彌生を知るきっかけであったように感じる。私は森美術館に行ったことがないので、機会があれば是非一度足を運びたいと思う。皮肉にも、草間彌生はそれ以前ほとんど認知されていなかったはずだ。

 

”私は1960年代から、アメリカをふりだしに、ぐるぐる地球を廻り、世界中のあちこちでさまざまな美術館に出品してきたが、どうしてこう日本は遅れているのかと常々思っていた。金もあり、場所もあるのに、現代美術に対する真の関心と理解がない。アメリカから帰ってきた時、日本は百年遅れていると実感した。そして、その時のショックは今も忘れられない。”草間彌生「無限の網」より引用

 

 察するに草間彌生には、日本に対する多くの失望感がある。けれどもそれを単なる失望感にせず、「何糞!」と作品に昇華出来るようなエナジーを作品から感じずにはいられない。おそらくそれは、とてつもなく頼もしいこと。日本に対する何糞精神が無ければ、ここまで描こうと思わない。彼女が病を患うまで描く必要は無かったはずだ。私の、彼女の、何かに突き動かせる感覚は、挫折の上で初めて達成されるのだと思う。どれもこれもすばらしい作品だった。そもそも、どれもこれもすばらしいなんてことはまず、あり得ないのだから。彼女の、前衛であれ。というメッセージは、日本の社会、日本のあり方すべて、また自分自身への挑発として受け取った。