極論の世界に留まることの辛さ

 

 

定期的にブログを書かないと気持ちが詰まってしまいます。

詰まってくると色々なことが詰まってくるので今日もゆるゆると書くのです。自分のためでもあるし、結果的に周囲のためにもなります。

 

 

 





タイトルは「極論の世界に留まることの辛さ」ということで、その辺について最近思うことを書いて行きたいです。





常々人と関わる上で"極論"状態に遭遇することはかなり多い気がします。

 

 



例えば恋人がいるとします。彼女は相手ともう別れたい状況だったりします。

 




「あの人といると上手く行かないのよね。新しい彼を作って別れようかしらん。」

 

 



とかよくありますよね。ネットや書籍にもよくこんな記事があります。





「彼女をダメにする男たち」「男をダメにする女とは」「別れのススメ」等々。おいおい余計なお世話だよ。コノヤロー。と思うのは私だけでしょうかね。

 




 

まあそれはいいとして、この例にある彼女は「あの人といる”せい”で上手くいかない。」と言っていますよね。






このように、全てを相手や環境のせいにするのは正しいことなのか疑問です。けれど同時に、自分の責任だけにすることにも違和感がありませんか?






そう。これも1つの極論だと気がつきました。

 

 





相手や環境のせいにしないためには、自分のせいにするしかないという状況に置かれてしまいがちです。






しかし、この理論ではかなりの無理が生じてしまいます。ゆくゆく環境、もしくは自分が破綻してしまい辛くなるのです。

 

 




ほとんどは相手のせいかもしれない。という時は「95%相手のせい。残りの5%は自分のせい。」とか、そんな風に意味付けをすると比較的楽に生きられると思います。







100%のリアルなんてこの世にあるでしょうか。実際にはなさそうです。5%自分が悪くても95%相手が悪かったら、ほぼほぼ相手が悪くなるんでそれで良いのでは??

 

 





時折「誰のせいでもない。だれも悪くない。」という人も中にはいますが、それはそれで破綻します。相手が0%であれば、その辛い状況を掬うことができなくなるからです。







「他人が悪いということなんて言っちゃいけない」という意見もちょっと、何根性なの?と思います。絶対無理してるじゃんか。それ。

 

 





そもそも良いことは常に正義であって、悪いことは間違っているのでしょうか。誰だって悪にも善にもなることを、この世の誰もが知っているのに。

 

 




人として当たり前に沸き起こる気持ちに、振り回されないようにするには、悪であれ善であれ、見る目を養うことが大切かもしれません。






物事を数値化することで、自分が生きやすくなったらね、自分にも相手にも優しい自分になれますぞ、きっと。