「Jimdoブログが良くない」と言いつつも、やはりブログは凝った方が良さそうとも感じる…。
結局ここに戻って来てしまいました。さて、今回も緩くブログを綴ります。
タイトルは「食べ物と関わること」
ここ最近、自分は今まで食べ物とちゃんと向き合って来たの?と感じることがしばしばです。
柄にも無く料理する機会も増えており、煮物や焼き魚などに触れることも多くなってきました。
数ヶ月前にカボチャを煮たのですが
「コレ、うますぎじゃん?」
と思わずにはいられませんでした。
以前はカボチャの煮物が食卓に登場すると「うへえ」という感想しかなく、今になって母に対する反省の気持ちが沸々と出てきます。
カボチャの煮物ってかなり簡単ですが「作った感」がすごいある料理。
作る前はめちゃめちゃ硬いし「これどうなんの?」とツッコミたくなる形状をしています。
しかし、煮ると甘みが出て急に「反抗期終えた息子」みたいになりますよね。
息子いませんが、カボチャは息子感があります。笑
おそらく、カボチャ農家の方は「かわいい息子には旅させよ」精神で、送り出していることでしょう。
話は逸れますが、たとえ文句の1つに「試験中は周囲を"ジャガイモ”だと思え」とありますね。
意味合いは「周囲のことは気にせず受ける」ということなのでしょうが…。
なんであれジャガイモなの?と感じる人は意外と少なそうです。カボチャだっていいじゃんね。
ものすごく根拠のない意見ですが、戦争中にイモ類が沢山穫れたからかなーと思っています。
私の祖父は疎開先がなくて、東京大空襲をモロに受けた人ですが「イモのツルばっかり食ってた」と良く言います。
戦争を経験した人の中には「イモを食いたくない」といって、全く食べつけない場合もあるそうです。
言い換えると、それくらいイモ類は、過酷な状況でも良く育つということ。
「良く育つ、どこにでもあるありふれた野菜の代表」だからこそ
「試験中は周囲を"ジャガイモ"だと思え」なのではないでしょうか。
「食べ物って食べるだけが関わり方では無いのかもしれない、
食べ物に触れることも、自分が生きることを突き詰めることも、関わり方なのでは?」
と最近常々よく思います。そう思うと、いちいち食物が気になって上手く食べれない時も。
口の中に人参を含んだとたん
「この人参は、これから咀嚼されるのか」
というなんだか寂しい気持ちになってしまいます。
ベジタリアンの人は、肉魚などを食べませんよね。宗教や文化的な理由は大きいのかもしれません。
でももし、その理由が「肉魚は生き物だから」というものだとしたら、野菜は生き物じゃないのかと疑問です。
地道にではありますが、植物だって動きます。また、昆虫にも意識があるそうで、痛みを感じることができます。
突き詰めると「人間ってかなり無意識で色々な物事を傷つけてしまっているのかも。」と感じる。
人間だけじゃないかもしれないけれど。それさえも人間の驕りかも…?
そこで「殺生はいけない」「ありがたみを持っていただく」という考えにいたるのでしょうが、
私はひねくれているからか、ただ単に生き物を食い、素直に「うまい!」と言っている自分自身が気持ち悪かった。
カボチャ農家さんも、もしかするとそのような気持ちで自分の息子をおそらく食っているのかもしれません。
いや、ないか。。。むしろ「カボチャとして、立派な最期を…」という気持ち?
美味しいけれど、実は結構ムナシイ。という気持ちになりそうです。なんか泣けてきたよ。
素直な気持ちで、美味しい!といいたい今日この頃でした。
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